ドゴ・アルヘンティーノの作出 - About El Raza -
Perro de Pelea Cordobes
「あたかも昨日かのように私には思い出されます。私の兄のアントニオが初めて私にその計画を伝えた日。大型の獣を倒すために新しい犬を作成するという彼の考えが伝えられました。その計画のために彼は異常なまでに勇敢なコルドバの闘犬を利用しようと言うのです。さらに、他の種類とそれらを交配していくこと。どんな犬種が体高の高さを加えるのに適しているのか? 鋭い臭覚、スピード、ハンティングの高い本能を持つ犬に仕上げるために。しかも、他の何よりも他の犬と争うことのない犬を作るために熱心に考えました。コルドバの闘犬の勇気を維持した、家族と共に同じ場所で自由に暮らすことのできる社交的な獣猟犬にし、健康な犬を作出したいと考えたのです。」(アウグスティン・ノレス・マルティネス)
アントニオは作出のために以下の犬たちを使用するプログラムを計画しました。
1. 勇気があり高い闘争本能を備えたコルドバ・ファイティング・ドッグ。*
2. 獲物の捜索に不可欠な鋭い臭覚を持つポインター。
3. 活発で温和な性質を持つボクサー。
4. 大型化するためにグレート・デーン。
5. 大胆な性質を兼ね備えたブルテリア。
6. 広い胸と大胆な性質を持つブルドッグ。
7. 獣猟犬として優れた性質を持つアイリッシュ・ウルフ・ハウンド。
8. 強靭な顎を持つドーク・ド・ボルドー。
9. 白いコートを持つグレート・ピレニーズ。
10. 強大なパワーを持ち合わせたスパニッシュ・マスティフ。
* コルドバ・ファイティング・ドッグ(Perro de Pelea Cordobes): この伝説的なアルゼンチンの闘犬そしてブル・バイティング犬は輸入されたイギリスのブルテリアと様々なスペインの闘犬用のマスチフとブルドッグを交配することによって開発されたと言われています。ファイティング・スポーツが盛んであった頃、コルドバのマスティフは激しくて攻撃的な性質を持つために称賛されていました。その大きさに比較してとても機敏であったのです。
これらの犬が非常に悪質であったので、交配の間に牝犬を攻撃して殺しさえすると言われています。オーバー・ブリーディングは肌の不調、聴覚障害、および不安定な気性を生じさせました。最も評価された標本は色において純白でしたが、伝えられるところによればいくつかの多色の犬が探し出せます。
体高の平均はおよそ25インチ(63.5cm)でした。1970-71年に、この犬種がフェルナンド・モレノ氏の獣医科を訪れたことがあります。それは2頭でしたが獣医仲間の多くの関心を集めたそうです。この2頭がモレノ氏の見た最後の犬でした。「彼らは大変強く、ドゴに類似していたが、その一方でブル・ドッグを思い起こさせるものでした。全ての人々に対してたいへん良い気性を示しましたが、戦いを好むために他の犬と遭わせることはありませんでした。彼らの一般的な色は、黒、茶、ブリンドルのいずれかの斑を伴う白い毛でした。たいへん強い口吻と強い顎を持つのが一般的です。」
** この図のコルドバ・ファイティング・ドッグ(Perro de Pelea Cordobes)の写真は誤りです。この写真の犬種はアラノです。
また、ブル・ドッグはこの写真のような犬ではなく、オールド・タイプのブルドッグがその作出に使用されました。
マルティネス兄弟は、結果が望む方向に進む見込みを示すまで、ブリーディングの核として10頭の牝のコルドバ・ファイティング・ドッグを集めました。このプログラムのある時点では30頭以上もの牝犬を持っていたそうです。このプログラムの実行は、まだ学生であった2人の若者にとっては困難な課題でした。この実行においては、彼らの父親や家族、そして友達によって与えられた支援があり、それは可能になったのです。アントニオとアウグスティンが学校に行っている間、彼らの兄が犬の世話をしました。そしてこの兄弟は自らの小遣い銭をすべて犬の食物に費やしました。さらに父親の友人によってなされた食物寄付金によって支援されました。そのような支援は、そのプログラムの初期の数年間においてはこの兄弟にとってとてもありがたいものでした。しかし、そのプログラムを現実のものにする夢と方法はアントニオによるものです。彼はプログラムを作り、実行するということに関して天才というに値する才能を発揮しました。また、アウグスティンは常に彼を支えました。その後、アントニオが評判の高い外科医になった時、彼の医学の知識は彼の夢を改善し洗練していきました。彼は、1928年に新しい種類のための第一の基準を書きました。悲しいことにアントニオの夢が実現する頃にはアントニオは生きていませんでした。彼は、1956年に猪猟をしている間に、略奪者によって殺されました。その後、アウグスティンはアルゼンチン南部のパタゴニアに位置するEsquelにコルドバから本部を移動させて、兄の夢を引き継ぎました。彼はカナダ駐在のアルゼンチンの大使でした。また、彼は旅行に行く機会を利用しながら、世界の至るところにドゴを広めました。アルゼンチンや近隣諸国で大型獣猟をするハンターは猪やピューマを狩るためにドゴを使用しました。ドゴ・アルヘンティーノはあっという間に伝説の犬となっていきました。
ドゴ・アルヘンティーノはアイリッシュ・ウルフ・ハウンドの先祖のような耐久性を備えた猟犬です。ドゴは広大なパンパスを横切って猪を追跡し、詰め寄り、それを攻撃し、ハンターのためにそれを保持することが期待されます。ドゴは短距離で爆発的に速度をあげて走ることのできる犬です。また、長所はギャロップ(従ってギャロップで推進力を与えるアーチ形の腰部)で長距離をカバーしていることです。重さ400ポンド以内である猪に詰め寄って、攻撃し保持するために、十分な強さを持っていなければなりません。従来の猪猟では、犬たちが命がけで保持している間に、ハンターが猪の上に飛び乗り、心臓にナイフを刺し、殺すのです。
( Paolo Vianini, 1999 )
ドゴ・アルヘンティーノは1964年に、アルゼンチンの畜犬連盟(FCA)およびアルゼンチンの田舎の協会によって認知されました。FCI に加盟しているアルゼンチン・ケンネル・クラブは、1973年7月31日にこの犬種を公認しました。
アルゼンチンで初期には、ドゴは護衛犬、軍用犬、警察犬、そして盲導犬として使用されました。世界の至る所でドゴは大鹿猟から救助救難に至るまで様々な方法で使用されています。1976年に設立されたドイツ・ドゴ・アルヘンティーノ・クラブは、Schutzhund 分野において優れた犬を作りあげています。
ドゴは人々との綿密で物理的な接触を渇望します。家族とも深い愛情と信頼関係を築く犬です。また防衛本能も強く、万一、自分の家族の誰かが脅威にさらされることを識別すれば、その人を保護するために行動するでしょう。ドゴ・アルヘンティーノは、約75年前に始まった二人の兄弟の夢の実現です。ドゴは完全無欠なハンターであり、素晴らしい相棒です。そして賢明で上品な護衛犬であり、パーフェクトな犬です。
ホラシオ・リベロ氏のコーディネートによる
ドゴ・アルヘンティーノとアメリカン・スタッフォードシャー・テリアの
ハイブリッド ( Paolo Vianini, 1999 )
映像によるドゴ・アルヘンティーノの紹介(英語)
Video: Dogs 101 Dogo Argentino ( Long Version )
最後に、その後から現在に至る話をしましょう。アントニオにはアウグスティン、フランシスコ、ホセ・ルイス・ノレスという3人の弟がいました。アウグスティンがチュブ犬舎を、フランシスコとホセがサンタ・イサベル犬舎を所有していました。そして、アントニオにはアベル、ロドルフォ、バートリッツ、マルタ、アントニオという5人の子どもたちがいました。2008年11月時点で、アウグスティン、フランシスコ、ホセという弟たちは亡くなっています。また、アントニオの最後の息子であるアントニオははやくに亡くなっています。そして今、この世に残るアベル、ロドルフォ、バートリッツ、マルタ、そしてバートリッツの息子であるウリセスが一致団結し、ウリセスを代表としたラ・コチャ犬舎を支えています。カタナ犬舎と固い友情を結ぶラ・コチャ犬舎です。
ウリセス氏とカロリーナ婦人とともに(2008年11月、浅草にて)
若島孔文, クラブ・デル・ドゴ・アルヘンティーノ日本代表
( Koubun Wakashima, Ph.D, Katana Caza Mayor )
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アントニオ・ノレス・マルティネスについて
この前代未聞の驚くべき犬種は多くの人々の熱意によって集積され、形作られていきました。しかし、その青写真は私の祖父であり、この犬種の創造者であるDr.アントニオ・ノレス・マルティネスによるものです。祖父はアルゼンチン共和国のコルドバ市で1907年11月18日に生まれました。南アメリカの最も著名な外科医の一人ですが、祖父の名前は「ドゴ・アルヘンティーノ」の創造というすばらしい活動により、伝説となっていきました。
犬の繁殖とハンティングを愛し、たゆまない伝統主義者であり、偉大な科学者であった祖父は、若い頃から関心を示していた新種の犬を作出するための具体化を進めていきました。短期間で遺伝的に安定した新種を作る方法を理解できなかったその当時、祖父は重要な科学と遺伝の文献に値する質を有していたのです。祖父はこれを書物に残しています。しかし、目標の最終段階でハンティングの途中に祖父は殺害されてしまいました。
1928年に祖父はこの活動を開始し、1947年にサンルイスでイノシシやクーガーに立ち向かう「アーニャ (Ana)」というドゴの格闘を実践的に示し、この犬種を紹介し、披露しました。そのすさまじい勇気とすばらしい抵抗力を備えており、非常に穏やかな犬でした。
ドゴの作出は多くの犬の重要な能力(質)を加えることにより行われていきました。コルドバの古い闘犬、ブルテリア、その他多くのワーキング・ドッグです。多くの血統を用いて「狩猟の最高峰」として定式化された犬を作出することができたのです。
祖父の死後は、弟のアウグスティン氏がさらに完成を目指し、公式に認可されていきました。
ドゴ・アルヘンティーノは世界中に広まりました。一方で機能的なドゴの繁殖がおろそかになり、私たち家族は機能的なラインを保ち、運動性能の高いドゴを守っていく努力をしています。クラブ・ジャパン代表であり、カタナ・カザ・マヨールのオーナーである若島博士にはこうした活動のアジアの代表として協力していただいています。日本において機能的なドゴが作られていくことを期待しています。
ウリセス・D・アンドレア・ノレス
( Dr. Ulises D' Andrea Nores, La Cocha )
ウリセス氏、バートリッツ・ノレス女史、
ロドルフォ氏とラウラ・ルッソ女史、
カロリーナ女史、マルタ女史ら
Dr. アントニオ・ノレス・マルティネスのファミリーとともに(2010年、コルドバにて)
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ある日、一匹のドゴ・アルヘンティーノ・・・
私の知っているドゴ・アルヘンティーノ
人生とは私たちに時々刻々と様々な新たなことを教えてくれるものです。そのような経験というのは知らない間に、私たちの心の中のどこかにしまわれていきます。それは私たちの記憶の中の余分な知識になっていくのです。記録のようなもの。また、今風に言うと私たちがしてきたこと、もうやめてしまったことが保存されたディスケットとも呼ぶことができるでしょう。定期的に、または空想の中を自由に漂っているときや、夢をみているときなど、これまで生きてきた時間が一つの連なりになって現れることがあります。「巻き戻し」で現れるこれらの場面は私たちの未来や物事を判断する際にアドバイスしようとします。といっても普段はさほど気に留めたりはしないものです。私たちは新しいことを始めることにあまりにも強くとらわれ過ぎてしまっているので、それがどこから来たのかは考えずに、物事の本質を無意識に変えていってしまうものなのです。
私はすいぶん若い頃からドゴ・アルヘンティーノが大好きでした。当時はまだあまり知られていなかったのですが、私は住んでいた町を散歩に連れて歩いたものです。犬は種族でありブランドではないことを知らない人が散歩中に 「なんてかわいらしいの、どこの犬?」とたずねてくるのに、当時は「怒り」を感じたのを未だに覚えています。そんなときは怒りと皮肉の入り混じった奇妙な感情を込めてこんなふうに応えたものです。・・・フォード製です・・・。幻想と自由に満ちた16歳の美しき時代に今日のようにドゴ・アルヘンティーノが知られるようになるなんて誰が考えたでしょうか。いや考えるはずもありません。
あの頃はまだ誰もチャンピオンのことやワールド大会なんかの話などしていませんでした。私はドゴを愛していましたが、それはドゴが私たちの犬であり、単にアルゼンチンの犬であるという事実に夢中になっていたためでした。ドゴがとても強く、天下無敵であると信じていたし、コミックの中でのように胸に“S”マークが刻み込まれていると夢見ていました。もちろん今ではそんなものがないことは誰でもわかっているのですが。
大人になった今、私たちは当然そんなことはないと、オラン犬種で、といってもあのブリーディングの世界の数多くの犬種の中で一番美しい一種であると、頭ではわかっています。が、分かってはいても私たちは脳裏に残る幼い頃の“スーパー・ドッグ”のイメージから離れられないのです。
私のように昔からドゴと共に過ごしてきた者には一つだけどうしても受け入れられないものがあります。それは彼らの新しい主人だと自称する偽の身元引受人たちの出現です。奴らはドゴの全てを知っていると信じており、さらに私たちに教えようとすらするのです。私たちがすでに全てを知っているにもかかわらず・・・奴らの多くは当時、ドゴ・アルヘンティーノのことなど見向きもせず、何の価値も見出しませんでした。一緒になってブル・テリアの雑種だと言い張り、誇りを持って連れて歩いていた私のような人間を“変人”扱いしていました。ところがどうでしょう、今日ドゴが評価されるようになると、溢れんばかりの賞賛と褒め言葉を浴びせかけるのです。目的はただ一つ。ブリーダーの中での自分たちの地位を高めて重要人物であると感じたいだけなのです。
自分の人生を少しだけ清算するとき、私の記憶の中のたくさんの場面にあの年老いた犬の姿が現れます。彼らには自らの創造主の面影が残っていました。あの重そうな頭と見上げるような目をして、けだるそうにすら見える田舎の老練な動物。長い筋肉質の体は密集した太い毛で覆われていて、色は白、といっても見栄えのしない黄色がかった白色のようでした。どんな風に生きてきたのかをカムフラージュしているのか、怪我でできた傷跡をごまかそうとしているのか。その傷跡は自分の真価と怒りに対して与えられた勲章のようでした。肌にはクーガーやイノシシとの絶え間ない戦いの記憶が刻み込まれていました。きっとそんな戦いの中で仲間の何頭かを失ってきたのでしょう。それらの犬はこの美しい犬種の真の柱であり、創造主でしたが、当時は未だ公に知られていなかったため登録番号も詳細な血統書も与えられていませんでした。しかし彼らは最も大切な潜在能力を持っていました。それはアウグスティン・ノレス・マルティネス氏が聞き飽きるほど繰り返していたことで、何年も経った今でも私の耳元に響いてきます。先祖から受け継いだすばらしい遺産と実用的訓練。これこそが良いドゴ・アルヘンティーノの基本条件であると。
確かに時代は変わり、重要なのは証書だけで、それ無しにはドゴはドゴと認められないかのようです。理論ばかり先行し、背丈や斑点や歯のことばかりが取り上げれらて、誰もその機能については考えなくなってしまいました。彼らが受け継いだ遺産についての未来的なヴィジョンを持とうとする人はほんの一握りです。確かに昔と比べれば色も白くなったし、世界を前にしても見劣りしないほど立派になりました。しかし、これで本当に良いのでしょうか。これは非常に答えにくい質問です。時間が答えを出してくれるのを待つより他ありません。しかし一度過ちを犯してしまえば、それに気づいたときには既に遅すぎて、元通りにしようとしても確実に手遅れなのです。あまりにもたくさんの品種が方向を誤ったために絶滅したり、退化してしまいました。同じ過ちを二度と起さないよう、また、その共犯者にならないようにしなくてはなりません。彼らを愛し育てている私たち一人一人が自分たちの行動と精神のバランスを保ち、彼らを傷つけず、彼らの創造主の果たしてきた仕事を軽んじることなく、後の世代にも“私の知っているドゴ”を見るチャンスをあげたいと思うのです。
フェルナンド・エドワード・モレノ
( Dr. Fernando E. Moreno, Agallas )
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ドゴ・アルヘンティーノの本来の姿
私は残念です。私は現時点においてドゴ・アルヘンティーノの将来に関して楽観的になりえません。私は1968年にドゴに出会いました。私はその当時パラグアイで暮らしていました。また、私の友人であるアルゼンチンの獣医はあるドゴを持っていました。私たちはかつてはブラジルの境界近くに、ペカレスおよび密林地帯のクーガーを探しに行きました。それらのドゴは大きな犬ではなく、また、美しくもない。しかし、それらは長時間探索し、闘うことができる犬でした。それらは他の犬や家畜に対して非常におとなしい犬でした。しかし、実際に彼らは野獣に対しては「悪魔」でした。人間に対してはとてもかわいく、私の友人たちがハンティングに行きたいときには、友人たちに犬を貸したものです。
私たちはドゴの美しさを見ていません。彼らは単に強く、勇敢で、頑丈でなくてはいけなかったのです。今日、ドゴは昔と比べるとはるかに大きい。また、それらはさらに強い気質であります。しかし、機能的なトレーニングの不足から、彼らは長い間戦うことができないのです。それらは容易に疲れるようになります。また、さらに彼らにはもはや気力が見られません。人々は彼らの外観を好み、真の性質に対する敬意の欠落を伴い、人々はドゴを飼うのです。
この事実を私はとても悲しく思うのです。私にとってドゴは常に神話であり、私はそれらの特徴を失わないように一生懸命に努力しました。しかし、それは私自身が行う困難な仕事です! 他にも誰かが同じことをしなくてはなりません!
さて、私のケンネルですが、良い時期と悪い時期がありました。私は良いレベルを一時得ましたが、その後、アルゼンチンからのある間違った種犬を輸入してその質を失いました。現実に私は所有した2、3頭の種犬では幸運でした。また、現在ではレベルが再び良くなったと言うことができます。特に私が信じる機能性と気質の視点からはかつてにない最良の結果を達成しています。しかし、確かに、私は現時点で完全に満足はしていません。常にドゴのレベルを改善したいと考えています。なぜならば私はドゴが美という観点からではなく、タフさにおいて世界一であることを強く望んでいるからです。
Mr. Paolo Vianini with Maradona de Agallas
パウロ・ヴィアニーニ
( Mr. Paolo Vianini )
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ドゴ・アルヘンティーノによるペット・セラピーの経験について
私はファブリツィオ・ティリと申します。ローマ大学の運動科学科を卒業し、“サンタ・キアーラ”という看板のもとにイタリアでドゴ・アルヘンティーノの飼育に携わっております。昨春、“ヴァレンティーナ・ポエータ”ボランティア協会及び
犬訓練士センターの“グアルディアーニ・ディ・ニンファ(ニンファの番人)”の協力を得て、‘異なる能力を持つ’子供達のための試験的プロジェクトを実施するに至りました。このプロジェクトの名前は、参加したジェローニモ(通称ジージョ)という犬の名前にちなんで、“ジージョを怖がるのは誰?”というもので、ローマから60km南に位置するラティーナにて実施され、‘異なる能力を持つ’(ハンディーを有する)子供達の認知力・運動能力・社会性レベルの向上を目的とするものです。
本プロジェクトに参加したのは、ダウン症・軽度の知的障害を伴う自閉症・重度の知的障害を伴う自閉症など異なるハンディーを抱える子供達で、彼らの中から直線やカーブに沿って歩くことができる・左右の認識力・感情を言葉で表現できるなどの最低限必要な能力を有しており、犬に関心や愛情を示していた子供達を選びました。彼らには、第一に友達である犬を怖がらないよう、そして身体的接触をはかるように努め、接触を通じて犬の気持ちを理解し、コミュニケーションをはかり、よく観察して犬を導くよう心がけるように言い伝えます。犬との接触は、他者の存在があってこそ感じる“生きている”という感覚を感じさせるパイプとなり、自分の体を認識することが可能となり、他者に耳を傾け開放的な態度を促すものとなるからです。
初めは多少の困難はありましたが、特に犬にアプローチする段階において、わずかではありますが重要な進歩があったことに我々は気づきました。彼らは犬の従順な態度にも助けられ、犬に対して常に信頼感を増していったのでした。しかし次の段階はより難しいものでした。それは最初は訓練士に伴われて、後には一人で、犬と一緒に短いコースをこなすというものでした。この段階では我々の試みは半分成功しました。というのも、決められた動きを犬と行うことにすぐに適性があることを示した子供達もいれば、訓練士の助けを得てしか犬を連れ歩くことができなかった子たちもいたからです。子供達に十分な先導能力がないことを犬自身もおそらく感じていたのかもしれません。この困難の多くはそれぞれの子供の有するハンディーの形態と関連しており、中・重度の知的障害のある子供達は困難を示しましたが、ダウン症の子供達は時には権威ある態度で犬を連れ導くことができる能力を示していました!
私はこのプロジェクトに熱意を持って参加し、私の犬たちはもちろんのこと、長女(11歳)、長女の小学校の教師、私のバスケットボールチームの女の子達、人生のパートナーであるフラーヴィアにも参加してもらいました。そしてジェローニモ、半月のモルフェオ、エヴィータ、サンタ・キアーラのブランカの娘、チェルティカからなる5匹のドゴ以外にナポリタン・マスティフのアンナレとダックスフンドのマファルダも参加させました。犬との触れ合いは毎週一回行われ、美の展覧会のリングでの犬の動作についても学んでもらいました。それは美の展覧会のリングで、ハンディーのない子供たちの助けを得て、犬を先導する役目を彼らに果たしてもらうことを目的にしていたからです。
この試みはラティーナで全国展覧会が行われた際に実現することができ、子供達は犬と一緒にリングを歩いてショーを行い、おまけに素晴らしいトロフィーを家に持ち帰ることができたのでした。毎週の触れ合い、そして展覧会での犬達の態度は模範的なもので、導かれることに抵抗することも全くなく、お返しに子供達を舌でなめたりキスをしたりしていました。というのも参加した犬たちは皆、人間との接触、特に子供達との接触に慣れており、そばにいる他の犬にも攻撃的態度を示したりしたことがなかった犬達だったことが大きく関係していると思われます。彼らは外見的要因に左右されずにハンディーを持つ子供達と相互に関係を築いていました。
“ジージョを怖がるのは誰?”プロジェクトへ私達が参加したのは、ドゴ・アルヘンティーノを使っての新たな仕事を創造するためでもなければ、ドゴが誰にでも簡単に訓練できる犬であることを世論に信じさせるためでもありません。ドゴ・アルヘンティーノはピューマやイノシシ狩り用にアントニオ・ノレス・マルチネス博士により作出された犬であり、場合によっては警備や防備のために使用することもでき、強い支配的性格を持つ犬であり、持ち主には決断力と落ち着いた性格が必要とされるものであります。しかし、このプロジェクトにおいて、ドゴ・アルヘンティーノが、きちんとしたしつけを受け、社会化し、調和ある家庭的な環境に置かれたならば、ハンディを持った子供達にとってもよき遊び相手になりうることを我々は示すことができたと考えております。
ファブリツィオ・ティリ, ドゴ・アルヘンティーノ・クラブ・オブ・イタリア代表
( Prof. Fabrizio Tili, Santa Chiara, the president of Dogo Argentino Club
of Italia )
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フィンランドにおけるドゴ・アルヘンティーノについて
フィンランドで最初のドゴ・アルヘンティーノは Amancay および Aimara del Corsario でした。それらはアルゼンチンから輸入されました。これらの2匹の仔犬は1989年にフィンランドのケンネルクラブに登録されました。最初のフィンランドでの仔犬は1991年11月10日に生まれました。母親は
Aimara del Corsario でした。また、父親は Neron del Rancho Oriental でした。173頭のドゴがフィンランドで1989年以来登録されました。1年当たり登録された仔犬の一般的な数は3頭または4頭です。過去2、3年は、アルゼンチン、アメリカ、デンマーク、イタリア、スペイン、フランスおよびオランダのような国々から多くの良い犬が輸入されました。
フィンランドのドゴ・アルヘンティーノ・クラブは南アメリカの Molosser RA の名前のもとで1993年に設立されました。クラブの名前は1996年に現在のものに変更されました。ドゴ・アルヘンティーノ・クラブは、ブル・マスチフおよびマスチフ繁殖機構の後援の下にあります。構成は、カネ・コルソ、スパニッシュ・マスチフ、フィラ・ブラジレイロ、ブル・マスチフ、ボルドー・マスチフ、マスチフ、ナポリタン・マスチフ、グレート・ピレニーズなどの種類からなっています。
ドゴ・アルヘンティーノ・クラブは2003年に繁殖のための委員会を始めました。繁殖委員会の目的は、将来のドゴ・アルヘンティーノの方向性を明らかにし、繁殖機構を支援することです。1999年には、ドゴ・アルヘンティーノ・クラブが、ドゴ・アルヘンティーノの権利として作業犬競技に参加するようにフィンランドのケンネルクラブに請願しました。最終的に、2002年の8月に、フィンランドのケンネルクラブは申込みを受理しました。また、ドゴ・アルヘンティーノは現在、公式に作業犬のトライアルに参加することができます。これは、クラブのための新しい方向作りです。とりわけ、クラブはクラブ・メンバーおよびトレーナーのために専門のトレーニングを整えなければなりませんでした。現在、ドゴ・アルヘンティーノ・クラブは公式に3人のドッグトレーナーを認可しました。また、4人がおとりトレーニング・コースに参加しました。ドゴは、トラッキング、捜索および救助 (服従およびSchutzhund
) の中で訓練されました。
ドゴ・アルヘンティーノ・クラブのメンバーは非常に活発です、そして、クラブには約100人のメンバーがいます。メンバーは資金調達の活動に参加します。また、そのお金は、クラブ・メンバーのための犬の訓練および異なる競技のために使用されました。次の大きな競技はドゴ・アルヘンティーノ・クラブの7月24日の10周年記念ショーになるでしょう。アガラスのモレノ氏が審査員になるでしょう。フィンランドのドゴ・アルヘンティーノ・クラブに関してより多くの情報は次のウェブアドレスで見つけることができます。www.dogoclub.fi/
ジュッソ・コイブサリー, ドゴ・アルヘンティーノ・クラブ・オブ・フィンランド副会長
( Mr.Juuso Koivusaari, Vice-President, Dogo Argentino Club of Finland )
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ドゴ・アルヘンティーノの機能性の追求
ドゴ・アルヘンティーノというカザ・マヨールは南米の優秀な外科医の兄弟によって遺伝を駆使して作られた神話的犬種です。その神話的犬種は知性と機能を兼ね備えた伝説の犬種です。
アウグスティン・ノレス・マルティネス氏が繰り返し述べ、また、私の最良の友であるユリセス・アンドレア・ノレス氏が述べるように、「真」のドゴ・アルヘンティーノは「真の血統(父犬と母犬の血統)」と「機能的訓練」により完成されていくものです。
私は「真」の血統(それは良い血統ではなく)のドゴを追求します。それは美しさの追求ではなく、典型の追求です( CGLI. Cayambe del
Chamical は典型の一つの象徴です。彼はスタンダードのプロトタイプとなった犬です)。そして、現在、私が真のドゴと認めることができる海外の犬舎は少数に過ぎません。どの犬舎が良いかについては私のこころの中だけに留めるものですが、私が認めるのはブエノスアイレス、コルドバ、ロサリオ、イタリア、そしてアメリカの少数の犬舎のみです。これらの犬舎は国内ではほぼ知られていません。
FEDA はこのような危惧に基づき、組織化されました。私自身もこの組織化に参画しました。しかしながら、FEDA
ではサイズにこだわり過ぎるために、また異なる弊害が予測されるところでもあります。本来、機能性を追求することからサイズの問題が出てきたことを忘れてはなりません。サイズは手段であり目的ではないのです。つまり、究極的には機能性を追及することこそが全てであると私は考えます。
典型とされる血統が「真」のドゴとして完成するには様々な機能的訓練が必要なのです。国内外においてドゴの機能的訓練は非常に貧困であり、それはドゴの将来を危うくしています。いや、既に「真」のドゴは存在せず、ドゴの機能性は奪われてしまっているという方が正確です。
私の犬舎であるカタナでは以下のようなトレーニングが繰り返し行われ、「真」のドゴ・アルヘンティーノの完成を目指しています。
1)服従訓練: 家庭犬としての基本的訓練(訓練認定の取得)
2)防衛訓練: 家族の安全とその所有物の防衛および襲撃(訓練認定の取得)
3)アジリティー訓練: 障害物のクリア・ラン
4)特殊訓練: 狩猟犬としてのワイルド・ボアー・ハンティング・トレーニング
5)日常訓練: 自転車・バイクによる引き運動、歩行による引き運動、ノー・リードによる自由運動。
近年、私はドゴ・アルヘンティーノという犬種にはトレーニング・エドゥケーションが重要であると、強く確信しています。それは、その知性にせよ、持久力にせよ、身体のバランスにせよ、ドゴ・アルヘンティーノの持つ神話的なパフォーマンスの全てが毎日繰り返されるトレーニング・エドゥケーションによってのみ唯一向上していくことにより証明されます。このようなトレーニング・エドゥケーションの積み重ねにより、日常生活での立ち居振る舞いはもとより、力強い首、肋骨の張りに見られる大きな肺、狭い腹部、力強い四肢、そして、大きな頭と口が遺伝的要素とは比較的独立した形で形成されていきます。
B.I.S. 2004 Quore of Katana Caza Mayor
On Photo 4 years and 3 months old
Imp. Arg., B.O.B., Special Award 2004 Audacity Katana
On Photo 1 year and 6 months old
また、ドゴ・アルヘンティーノを使用した狩猟や狩猟訓練をする場合について、ここで適切な情報を提供する必要があるでしょう。
まず、ドゴ・アルヘンティーノは中距離型の猟犬です。長距離の追跡には一般的にその他のハウンドを使用します。中距離からの追跡には充分な臭覚を持ちます。従って、長距離型のハウンドと組み合わせることでより無理のない実践的なハンティングが可能となります。
次に、ドゴ・アルヘンティーノの骨格や顎の力、そして際立った精神力が完成されるには生後2年から2年半という長い期間を有します。それ以下の年齢のドゴにはリスクの少ない狩猟や狩猟訓練を飼い主が導けなくてはなりません。それができない飼い主は自らの無知あるいは自己中心性により、この素晴らしい相棒を死に追いやることになるでしょう。アウグスティン・ノレス・マルティネス氏はさらに次のような重要な注意事項を述べています。
「2頭のドゴではビッグ・ゲーム(大型獣猟)を求めることはできません。4頭では充分ですが、私の経験では4頭から6頭をパックとして使用することが理想的です。単独でドゴを用いるならば、彼らの勇気こそが彼らに重大な負傷あるいは死を引き起こすことを確信しています。」(アウグスティン・ノレス・マルティネス)
Alpataco de La Katana, Garcia de La Katana & Agip Dino de La Katana
カタナ犬舎訓練施設 アルティメット・アニマル・シティー(千葉県旭市) トレーナー: パンク町田氏
ラ・カタナ仙台 若島孔文直轄道場 オリジナル・トレーニング・プログラム
トレーナー: 若島孔文・狐塚貴博氏
若島孔文, クラブ・デル・ドゴ・アルヘンティーノ日本代表
( Koubun Wakashima, Ph.D, Katana Caza Mayor )
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Blanco Alumine de Agallas
この写真は私にとって、そしてこの犬種のブリードにおいて最も重要な写真の一つであり、これをあなたに送ります。1200頭以上のドゴ・アルヘンティーノを伴い、アルゼンチンにおいて開催された最も大きなショーによって優勝した
Blanco Alumine de Agallas です。国際大会で優勝した最初のドゴ・アルヘンティーノです。
審査員はAKCの会長であった フェルソン氏(H. Fellthon )です。しかし、この写真の最も重要な点は、アウグスティン・ノレス・マルティネス博士(Dr.
Agustin Nores Martinez )を見ることができるからです。この時、彼は癌の末期にあり、その数ヵ月後に亡くなりました。しかし、彼が私に言ったことを思い出します。
「ありがとう、フェルナンド。これはあなたが私に与えた最高のプレゼントの一つです。これで私も心地よく死をむかえることができます。なぜなら世界に向けてドゴが偉大な犬種であることを示せたからです。」
この事実を知る人はもはやほとんどおらず、この写真はたいへん重要です。この写真は私の著作とこのWEBだけに掲載することが許されるものです。
( The use of this photograph is not permitted.
Because this photograph can use only Dr. Fernando Moreno and me,
the reprint of this photograph is prohibited.
I must keep the promise with him after he dies.
To everybody who has good intentions. )
フェルナンド・エドワード・モレノ
( Dr. Fernando E. Moreno, Agallas )
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畑 正憲氏、アガラスに訪問
これはムツゴロウさんこと、畑 正憲氏が10数年前にアガラスを訪問したときの様子です。畑氏は1935年に福岡県生まれ、東京大学理学部生物学科卒業し、現在、ムツゴロウ動物王国を主宰していることはご存知のとおりです。著書に「ムツゴロウの青春記」「ムツゴロウの博物志」など多数あります。
随分昔になりますが、フジテレビ「ムツゴロウとゆかいな仲間たち」でドゴ・アルヘンティーノが紹介されました。まず、ピューマを一日に2頭も獲ったことがあるという、額にピューマの傷跡の残る牝のドゴが紹介されました。このドゴは私がとても好むタイプの典型的なドゴでした。その後も典型的なドゴが数頭紹介されたことは私の記憶に残るところです。
3つ目の写真、畑氏とフェルナンド氏の息子であるダミアン氏の間にいるドゴは、6ヶ月から7ヶ月の時の
Elmer de Agallas です。Elmer は偉大なるチャンピオンである April Apple de
Agallas の直子です。本犬舎の Dulce Grosella de Agallas はこれらのドゴのラインを受け継ぐ典型的なドゴです。(これらの写真の転載を禁じます。)
左から 畑 正憲氏、フェルナンド氏、アリシア女史
( The use of this photograph is not permitted. )
若島孔文
( Koubun Wakashima, Ph.D, Katana Caza Mayor )
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ドゴ・アルヘンティーノの飼育について
私は常々から品種であれ種族であれ、それを育てるということは芸術であると考えてきました。ここでは犬なのですが、その飼育者は科学と知識と想像力をもとに、再生産を通して理論的必要条件の枠組み、スタンダードの中で我々の感性に一番心地の良いような調和とバランスを保った作品、つまり美を手に入れようとします。そして間違いなくこの芸術の成果として種族は改良されてきました。
犬の飼育に熱心な人々の大半の方はオスとメスを対にすれば完了、といういとも簡単な仕事だと考えておられます。その内のごく一部の人だけが日々知識に磨きをかけること励み、そんな簡単な仕事ではないという意識を持って取り組んでいます。この少数派の方々は遺伝学の基礎規範を尊重し、これまでの事例をよく頭に入れています。
私はここで飼育での遺伝学的な操作に基準がなかったためドゴ・アルヘンティーノがさらされることになってしまった潜在的な危険性について述べようと思います。
この犬種に対する興味が世界的に広がったため、それに乗じようとした多くの人々が一部には金儲けを理由にドゴの飼育に走りました。しかし彼らがとったのは私から見れば間違った道でした。将来的にはドゴと同じタイプの別品種とを分別するために欠かせない必須特性は、ゆっくりとですが、損なわれることになるでしょう。
この結果の一部はすでに確実に現れておりドゴを育てる難しさに対する解決策が暗礁に乗り上げていることはご存知の通りです。それでは、何がいけなかったのでしょうか。
人間の行為に間違いがあったことだけは確かです。なぜなら犬を操作したのは人間だけであってそれ以外の何者でもないからです。しかし私は強い犬をはべらせていることで傲慢になったり、ドゴを飼っていることで卑俗な“愛国主義”をかきたてアルゼンチン人であるという自覚を強めたりしているような一部の人々の考え方や行いに意見できるほどの人物ではありません。しかしこの誤った操作の及ぼした影響については話すことができます。
この犬種の起源についての徹底した分析によってドゴ・アルヘンティーノの改良品種の徳として評価されている特性の多くは彼ら自身にとっては望ましいものではない、つまり欠陥であるということがわかりました。これらの特性の多くの欠陥は劣性とされていますが、これは何を意味し、飼育にどのようにかかわってくるのでしょうか。
遺伝学の専門的な話を展開すればあまりにも複雑すぎて読者をうんざりさせ退屈させてあまり何もわからないままに終わらせてしまうでしょう。とはいえ結果を判断するには少なくとも劣性対立遺伝子と呼ばれるものの潜在的な危険性についての初歩的な部分だけでも知っておいていただく必要があります。これについてお話しするに当たっていくつかのかなり専門的な用語の意味をきちんと捉えておいていただく必要があります。その間違った使用から不幸な結果を招かないためにも。
全ての肉体は遺伝子からできておりこれが集まったものが各個体の遺伝子型を特徴付けます。多方面で見てわかる固有の特性、ここでは犬ですが、その特性は表現型と呼ばれます。これらの特性には目に見えるところでは毛並みの色や感触、検査によって証明できるものとしては血液グループや心拍リズムなどがあります。一つ一つの遺伝子は固体のそれぞれ異なる特性を明らかにする対立遺伝子のペアーからなっています。これら対立遺伝子はたいていはその特性の頭文字を取った文字を使って記号化されます。
対立遺伝子は優性因子である場合と劣性因子である場合とがあります。例えば毛並みの色に関しては純白はくすんだ白に対して優性です。実は白色は他の色に対して劣性であり、ドゴ・アルヘンティーノに関してもそういう結果となっています。このケースではcolor
(色)の頭文字をとって“C”というふうに記述します。
動物が表現型的に純白で、色を決める遺伝子もまたそのような構成になっているとしましょう。つまり表現型と遺伝子型が一致する場合です。そのとき記述は2つの“C”つまり“CC”というふうに大文字で書きます。純白がくすんだ白色に対して優性因子だからです。なぜ2つなのでしょうか。それは一つ一つの遺伝子が対立遺伝子のペアー、一つはオスからもう一つはメスからとってきて構成されているからです。この状態はホモ接合と呼ばれ、その対立遺伝子はどちらも優性なので優性ホモ接合ということになります。
つまり同じ対立遺伝子から分裂する配偶子の集まりは常にホモ遺伝子型になるということです。表現型と遺伝子型が一致しない場合もあります。純白の毛並みであっても遺伝子型は純白の特性を持った対立遺伝子がくすんだ白色の対立遺伝子とペアーになっていることがあります。この場合“Cc”と表記します(大文字の“C”は表現型の優性因子にあたり、小文字の“c”は遺伝子型に隠れている劣性因子にあたります)。
これはヘテロ接合と呼ばれます。異なる対立遺伝子を持った配偶子の集合はヘテロ接合の遺伝子型になります。あるいは固体の表現型がくすんだ白色の場合も遺伝子型と表現型が一致することになります。表現型でくすんだ白色の場合、純白が優性因子なので純白の対立遺伝子は保有していないことになります。もし存在していればくすんだ白色にはなりません。すでに述べたように純白の“C”はくすんだ白よりも優性だからです。これもまたホモ接合の例ですが、タイプは劣性型です。構成する対立遺伝子は劣性なので“cc”と記述します。
前に挙げた例のうち2つを交配させると純白の特性を持って生まれることがわかります。つまり確実にどちらの固体も優性の対立遺伝子の“C”を保有していることがわかっているからです。しかしそのそれぞれの色の遺伝子を構成する対立遺伝子が両方ともこの因子つまり“CC”であるかどうかは確定することができません。なぜなら遺伝子型に隠れて持っていて純白の対立遺伝子である“C”とくすんだ白色“c”で構成されているかも知れないからです。目で確かめられるのであればくすんだ白色の潜在的な特性が存在しているかもしれないのです。もしそうであるのならそれはヘテロ接合になります。では色に関しての2つのヘテロ接合を交配させるとどうなるのでしょうか。
それぞれの動物の遺伝子の構成はこの場合“Cc”というように表記されます。新しい遺伝子にはそれぞれの対立遺伝子が一つずつ受け継がれるので新しい遺伝子の構成の可能性は次のようになります。
オス “Cc”+ メス “Cc” =
1 “CC”優性ホモ接合
2“Cc”つまりヘテロ接合、両親と同じということです。
“cc”この例はどちらの親にも対立遺伝子“c”が存在しておりくすんだ白色の劣性因子が劣性ホモ接合を引き起こした場合です。このケースでは表現型と遺伝子型が一致しています。固体の色は遺伝子型と同じくくすんだ白になります。
目で見ると非常にシンプルに見えますが実際はそう簡単にはいきません。これは対立遺伝子がどのように調和していくのかわかりやすくするための図解です。というのは対立遺伝子は他の要因も絡んで大半は100%優性であったり100%劣性であったりするようなものではないからです。こういった要因は一連の相互作用がかかわってくる全体的な特性に左右されるのですがそれについてここで言及すると膨大な量になってしまいます。
ともかくブリーダーにとって最も大切なのは劣性と呼ばれている一般的には望まざるものとして認知されている因子の中にそうでないものもあることを知っておくことです。ブリーディングの現場での明らかな例をひとつ挙げましょう。ボクサー犬の上顎前突症は劣性因子なのですがこの種族にとっては徳となる特性なのです。
劣性であれ優性であれ望ましからぬ因子は取り除かねばなりません。その因子が優性の場合、操作は簡単です。危険なのは望ましくない特性が劣性因子にある場合です。例に挙げたようにその場合、欠陥が劣性ホモ接合になったときに出現する危険性を永遠に抱えたままになります。私にとってドゴ・アルヘンティーノという犬種はあまりに身近なので他のブリーダーが自分のメスをそのタイプの欠点の表現型を保有するの典型的なオスと交配させるなどとを話しているのを聞くととても悲しくなることがあります。彼らは頭が大きいなどの特性だけに引かれていて犬種のアイデンティティーを示す真の特性を重視しようとはしないのです。他方彼らはその種の個性について話していたりするのですが、最も反していることをしているのは当の本人たちなのです。
このような操作を続けていれば長い間隠されている欠陥が潜在的に世代から世代に永遠に引き継がれてしまうという重大な事実に彼らは気づいていないのです。優性と劣性因子の操作はブリーダーの手中にはありません。ブリーディングに情熱を傾ける人は表現型で目に見える重大な欠陥をこそ最優先に対処していくべきなのです。“欠陥など関係ない、うちの犬は欠陥がないのだから一緒に育てていくつもりだ”などと言っている人たちがいます。こうして交配を限定した瞬間から欠陥が始まるのです。そして始まった時にはもう手遅れなのです。
ドゴ・アルヘンティーノを育てるのは簡単な仕事ではありません。選択の時に考慮すべき特性が多いからです。選択はその再生産者を選択するときからすでに始まっていると言えるでしょう。この犬種を愛する人たちにはこれまでの人々が積み上げてきた努力の成果を後退させるようなことはしないでいただきたいのです。ブリーダーと呼ばれるにふさわしい人はたくさんの中から選んだたった一つの犬種の改良に日々努めることを目標として掲げるべきだと思います。そうでなくては彼らはただの犬の製造業者としか呼べないのではないでしょうか。
フェルナンド・エドワード・モレノ
( Dr. Fernando E. Moreno, Agallas )
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Carancho と Alef
私は生後45日以前に Carancho を手に入れました。Carancho は6頭のオスの仔犬の中の1頭でした。このブリードを行なったのは
Maria Angelica D Afllitto 女史であり、私は自由にガーデンの中にいる全てのオス犬を見て回りました。そして、すぐに、私は
Carancho を見つけて、彼に夢中になりました。Maria は「もっと多くの時間を観察しなくてはいけない」と私に話しましたが、私は彼女に「その必要はない」と言いました。これが私が選んだ仔犬であり、私に正しさを与えた瞬間でした。彼はワールド・チャンピオン
Talisman、そして1988年にアルゼンチンでベスト・メイルを獲得した Alef の父犬です。人々はそれを信じられないかもしれませんが、私は最初の瞬間から
Carancho を手に入れたのです。次に、Carancho のために最良のメスの仔犬を手に入れることに着手し始めました。そして、私はメンドーサの血統をともなう一頭のメスの仔犬を
Maria の繁殖から買うことに決めました。このメスのドゴが Luna です。彼女の最初の仔犬が偉大なチャンピオン Audacity Alef
です。Alef はたいへん強い気性のドゴであり、実際に私がブリードした最初の犬でした。私は個人的に Carancho および Alef のショーにおける経歴を全て作っていきました。Carancho
は他者に対してどんな問題も持っていない犬でしたが、Alef は別でした。彼は私とともにいるときのみショーにおいて静かでした。彼は非常に私を愛し、私だけを見つめているかのように静かになったのです。
Carancho と Alef、この2頭のドゴはこの時期の特別なもう一頭のオス犬・偉大なチャンピオン Indio del Litral とともにドゴ・アルヘンティーノのブリードの歴史を築きました。 Indio
は Carancho や Alef に勝てる唯一のドゴであり、Alef もまた Indio に勝てる唯一のドゴでした。私の記憶が確かならば、この3頭のドゴがこの犬種における過去15年の歴史を築いたのです。Talisman
は Alef や Indio には決して勝利することはできません。同様に、偉大なドゴである Baron も勝利することができません。Baron
ですら Alef や Indio のクオリティを持たないのです。
私が Alef を非常に質の高いドゴと見なしたとき、Alef の交配相手として Indio の娘を飼うことを考え始め、実行しました。世界中に存在する私の犬舎からの全てのチャンピオン犬はこのコンビネーションによるものです。私のブリーディング・プランにおいて、私は偉大なドゴである
Koby del Indio Blanco を選びました。彼は Indio del Litoral の息子です。そして今、私は偉大な Rocco
を私のラインにおきます。彼はこの犬種の15年の歴史の中でのトップ・スターである Audacity Cuatrero の父です。Cuatrero
は全てのブリーダーの夢です。私は彼のブリーダーとして多くの誇りを持ちます。そして私は若島氏が彼のオーナーとして多くの誇りを持つであろうと確信しています。彼が日本に到着する後にも先にも何かを達成することが約束されているのです。全てのブリーダーが、種犬としての彼の特別な質を認めることを望んでいます。Cuatrero
と彼の息子のブリードを完璧にするためのメス犬を得るためのブリードについて、私は友人たちと一緒に考えています。
生命は続かなくてはなりません。真のブリーダーはアーティストのようです。ベストを作り上げたとき、その次を作る方法を考えなくてはならない。もし、それが可能であったならば、これは一人のブリーダーの夢です。自分が考えた仔犬が生まれると同時に、次のスーパー・ドゴのことを考えなければならないのです!
新しい仔犬が生まれて、私の熱狂がなくなるであろう日が来るならば、その時、私はブリーダーをやめるでしょう。しかし今はそうではありません。ブリーディングは熱意を持たなくてはなりません。そして私はこの熱意を持っています。私は新しいブリーダーがこの考えを求めることを望みます。日本におけるドゴのブリーダーとオーナーの夢の実現へ。
Ch.Arg. Carancho de Antares
#1 Audacity Alef, #2 Indio del Litoral, #3 Baron de La Herencia
Ch.Arg. Carancho de Antares
アルバート・ガーファンクル
( Mr. Albert Garfunkel, Audacity )
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私の記憶
クラブ・デル・ドゴ・アルヘンティーノ -Dr.アントニオ・ノレス・マルティネス- は、1971年9月19日に公式に設立されました。初めての会合は私の両親の家で開催されました。私たちは20代でたいへん若かった。私たちはよくサルミエント公園で犬を伴だって会いました。初期の技術的な援助は当時、コルドバ・ケンネル・クラブの理事であった数人の友人から得られました。最初のクラブ・デル・ドゴ・アルヘンティーノの代表であった支援者のマニュエル・J・グズマン氏を思い出します。この時期、ブストス・フィエロ氏の家族が市街から約25キロ離れたモンテ・クリストの町の敷地を私たちに提供してくれました。サンタ・ルイスとパンパからもたらされたイノシシと、コルドバからもたらされたピューマとペッカリーをこの敷地に用意しました。この試みは初期において、ベスト・ドゴを選択するための手助けとなりました。1960年代の中期に、私たちはそれほど多くの犬を持ちませんでした。その時期に最初のスペシャリスト・ショーを開催しました。
遺伝的多様性について話します。アントニオが死去したのち残された犬たちは彼の子どもたちであるマルタ、ロドルフォ、アベル、バートリッツ、そしてコルドバにいた兄弟であるフランシスコやチューブの田舎であるエスキュールにいた兄弟のアウグスティンとともに生活していました。さらに、私たちはコルドバの市街や田舎のブリーダーではない人々が持つ犬の血を利用しました。1960年代に、アウグスティンとともに継続的に犬の変化を与えました。彼が私たちに与えた
Solitario del Chubut、Lepa del Chubut、Neuquina del Neuquen はこの犬種の重要な個体となりました。また、アウグスティンは同じ繁殖からの2頭の兄弟犬
Uturunco、Lanin をもたらしました。これらの犬はサンタ・イサベルで生まれた犬であり、アントニオの犬からの直接的な犬でした。フランシスコとオスヴァルト・パスクーツイによる犬です。また、トトラルの私の兄弟により、アウグスティンの犬の直接の系統である
Jeronimo、Blanca、Lola もまた、もたらされました。
アマディオ・ビロ氏の所有していた有名な Day de Trevelin のようなエスキュールにおけるたいへん優れたいくつかの犬がいなくなったとき、Uturunco は再びコルドバにもたらされました。ここで私は思い出しました。Tupi del Totoral のことを。彼は1972年にコルドバのアルタ・グラシアで、B.I.S.を獲得した最初のドゴ・アルヘンティーノです。また、最初のグランド・チャンピオンを獲得した Mancha del Chubut を思い出します。
短い期間で、1946年に作成されたスタンダードからの指標を得て、体重、体高、形態などが決まりました。それらのスタンダードは、雑誌『ダイアナ』でアウグスティンによって説明が加えられました。その後、FCIでの認可を通じて、国際的に認められるようになったのです。
Day de Trevelin
ホラシオ・リベロ
( Mr. Horacio Rivero, the President of Club del Dogo Argentino )
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Caudillo Blanco del Do Yel
私は自分の人生の中で疑うことなく最も重大なことについて、今、あなたに話すつもりです。
私は繁殖などを目的としたわけではなく、ただ一頭の牝のドゴ・アルヘンティーノを最初に買いました。しかし、私がこの犬種を好きであったのは事実です。そしてその犬こそが Caudillo Blanco del Do Yel の母犬である Yuca de Venored でした。
私は私の牝犬を交配する相手の犬を探すために様々なブエノスアイレスの犬舎を訪問しました。そして、私は私を魅了し、もはやそれ以上犬を探す必要がないと思わせる一頭の牡に出会いました。未来における
Yuca の仔犬の父となる Indio del Litral です。Yuca の交配の準備ができていたので、私は Indio del Litoral
との交配のために、ロサリオに旅をしました。
その2ヶ月後、Yuca は3頭の仔犬を生みました。2頭の牡、Caudillo Blanco del Do Yel と Arauncano del
Do Yel、そして1頭の牝 Ayar del Do Yel でした。Caudillo は彼らの中で最も小さな仔犬でした。しかし、その時からすでに彼の性格と美しさは目立っていました。そして彼が成長するにつれて、彼のサイズは他の2頭のサイズに追いつき、それを越えました。
彼が3か月のとき、特別な子犬として最初のショーに彼を出陳しまし、彼は勝利をおさめました。彼はその後、出陳したカテゴリーにおいてすべてのショーで勝ち続けました。彼の兄妹である
Ayer を除いて。彼は9カ月で、ベスト・オブ・ブリード、グループ、ベスト・イン・ショーを得ました。
13か月になったとき、Ayer とともにアルゼンチン・チャンピオンになりました。同時に彼はベスト・イン・ショーを勝ち取りました。体重が少し減少したのでしばらくショーに出さないでいましたが、15か月のときに出陳を再開しました。2週間連続で行われた単犬種展覧会や全犬種展覧会を含む全体で10のショーにおいて、アルゼンチン・チャンピオンを獲得した犬の中で9つのショーで勝利しました。この2週間はその年の最大規模のショーであったので、すべての犬種の中でランキング1位になりました。
彼は2002年から彼の死を迎えるまで全犬種でランキング1位として戦いました。
彼の死について、そこで生じたことを以下に述べます。
私はプジョー・パートナー・ヴァンを駐車し、ニュース・スタンドのそばに接近するために外に歩く準備ができていました。Caudillo は輸送用のゲージの中にいて車の後部にいました。急に、自動車が私のヴァンの前に現われて駐車しました。また、2人がその自動車の中に留まり、他の2人の暴漢が外に出ました。彼らの1人は助手席側のドアを通って私のヴァンに乗り、私に外に出るように命じました。私は犬を盗らないように彼に頼みました。しかし、彼は拒絶しました。私は再び、さらに数回求めました。しかし拒否しました。また、仲間の強盗が来て、ヴァンから私を外に押し出しました。私はヴァンの後部に行き、貨物口を開き、それが地面に落ちるようにそれを引こうとゲージをつかみました。彼らは
Caudillo を連れて行かないであろうと思いました。その瞬間に、ヴァンはスタートしました。また、私はドアを通って再びそれをつかみゲージを引きました。Caudillo
の重みでドアは開きました。また、彼は外に出ました。「 Caudillo、こっちだ!!」と言った瞬間に、強盗の1人は銃を撃つために振り返りました。Caudillo
は私の命令を無視し、強盗に向かい近づき始めました。その後、私に向けられた最初の発砲を聞きました。
ヴァンは走り始めました。私はそれを追跡しました。しかし、私はついて行くことができませんでした。さらなる発砲を聞きながら、私は走り続けました。最終的に強盗はヴァンのコントロールを失い、木に衝突しました。後ろの席の者は車から降りて、自分たちが使用していた自動車に乗りました。自動車の中にいた2人はヴァンを運転していた者を支援するために降りました。その一人は
Caudillo によって首を噛み付かれており、その後病院で死亡しました。
Caudillo はさらに暴漢を追い始めました、しかし、数フィートのところで地面に崩れ落ちました。45口径の拳銃で7回撃たれていました。肋骨エリア3か所、胸の上の1か所、喉の上の3ヶ所、マズルを1か所。強盗は逃げ、また、私が
Caudillo のところに到着したとき、彼は既に死んでいました。そしてまだ出血していました。私はこの事件を話すときに感じることを、また、どのように感じたかについて説明することができません。とても大きな苦痛を伴います。私は多くの犬を飼っており、さらにこれからも多くの犬を所有するでしょう。しかし、誰も
Caudillo に代わることはできないでしょう。
警察がヴァンで2丁の45口径の拳銃を発見しました。拳銃の一つはすっかり空になっていました。Caudillo が攻撃した強盗が所有していた拳銃はすべてが残っていました。つまり、一発も発砲することができなかったのです。Caudillo
は22か月でした。体高66.5cm。体重59.7kg。(2000年6月11日-2003年4月27日)
Gr.Ch.Arg. Caudillo Blanco del Do Yel
マーティン・パラパー
( Mr. Martín Parapar, El Do Yel )
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ドゴ・アルヘンティーノはフェラーリである(マルセロ・フェルナンデス博士)
マルセロ・フェルナンデス博士は、ヴィクター・ヴァリーニョ博士からドゴ・アルヘンティーノに関する知識を受け継いだ素晴らしいドゴ・マンです。「Dr.
若島へ。私はメディカル・ドクターであり、あなたと同様に Ph.D です。私はあなたと同様に商人ではありません。私はあなたの信念に賞賛を送ります。私はドゴ・アルヘンティーノの周りにあなたのような多くの人々が現れることを望んでいます。」 カルフクラ犬舎(
Calfucura Kennels ) は、カタナ犬舎同様、オールド・スタンダードを目指す犬舎です。適切なサイズで、バランスの取れた犬を追求しています。 「私たちは典型を信じます。何よりも単なるショー・ドッグとは一線を画さなくてはなりません。また、私たちは、形態が機能に続くと信じています。」 「私たちは性格を重要視します。
ドゴ・アルヘンティーノは強い気性を持つべきであるということです。少数の人々にのみ扱うことができる犬であるべきです。 あなたは普通、日曜日の午後しか運転しないドライバーにフェラーリを与えると思いますか。
ドゴ・アルヘンティーノはフェラーリです。そして、何よりも、私たちはハートを重要視します。 ドゴ・アルヘンティーノはハートの犬です。 無数の狩りは、この犬が何に関連するのかを明確に示しました。
私たちは、それについて説明するために途方に暮れています。 しかし、それを書くことができません。 それを読むこともできません。 ただそれを見ることさえできません。
それは十分ではありません。 それは感じられなければなりません。 あなたがいったんそれを感じると、あなたが別の犬種を受け入れる方法が全くなくなるでしょう。
ドゴ・アルヘンティーノは人間味があります。アルゼンチンの美徳、私たちの全てを反映されたい鏡。 私たちは、いつかそのような名誉に値することができるのを望むことができるだけです。(2002年9月 Dogoman)」
Jaque de Antares and Atahualpa de Calfucura
Jaque de Antares
若島孔文
( Koubun Wakashima, Ph.D, Katana Caza Mayor )
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Estuque de Santa Isabel
2005年のブエノスアイレスでのワールド・ドッグショーで、私はアレハンドロ・マルセロ氏と本犬種のリングの最前列で観戦していました。私はアレハンドロ氏と「どの犬がウィナーになるか」を話しながら、楽しんでいました。そして、あの爆破事件が起こりました。そう、それは
Rocco de Antares がリングに乱入してきたすぐ後のことでした。アレハンドロ氏は足が悪いので私とともにゆっくりと会場を出ました。無事、会場を後にし、私たちはアルバート氏の自宅で食事をともにしました。
彼はヌエヴァ・コルドバ犬舎のオーナーです。そのスタッドは、フランシスコ・ノレス・マルティネス氏の作出した Estuque de Santa
Isabel です。この犬は、Indio del Litoral を含めた数頭のドゴ・アルヘンティーノとともに内陸部から連れ出されたことにより、当時、コルドバのクラブが分裂したほど、重要なドゴ・アルヘンティーノでした。すなわち、このドゴ・アルヘンティーノはコルドバから連れ出されてはいけない犬だったのです。この
Estuque(エストゥケ)を基礎に、オーナーであるアレハンドロ氏は以下の写真に見られる様々な優れたドゴ・アルヘンティーノを作出してきました。この優れた犬舎は、現在、残念ながら存続の危機に向かいつつあります。犬を少数しか保持しておらず、かなりクローズドなブロッドになっています。この系統のドゴ・アルヘンティーノのブロッドは貴重になりつつあります。
with Mr. Alejandro Morcillo, the owner of Nueva Cordoba Kennel at Argentina,
2005
Estuque de Santa Isabel
Cabure de Nueva Cordoba Maino Cunta de Nueva Cordoba
Mole de Nueva Cordoba Paika de Nueva Cordoba
Toro de Nueva Cordoba
Gregorio de Nueva Cordoba
映画 『ボンボン』にて、ボンボン・オ・ルシアン役をつとめたことで知られています。
Uro de Nueva Cordoba
This Dogo is a son of Maino Cunta de Nueva Cordoba and Estuquina de Nueva
Cordoba.
Peritas de Nueva Cordoba
Masa de Nueva Cordoba Tamara de Nueva Cordoba
Cunta de Nueva Cordoba
若島孔文
( Koubun Wakashima, Ph.D, Katana Caza Mayor )
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